「ちょっと田んぼの様子を見てくる」のまとめ
■テーマを取り上げた理由
台風や大雨により田んぼが気になって様子を見に行って亡くなる方が毎年でてます。これを防止するためwiki風にまとめてみた。
このサイトを見て少しでも事故防止に役立てれば幸いです。
■現状の把握
田んぼの様子(たんぼのようす)とは、農業に従事している人々が己の命を捨ててでも確認しようとするものである。
農家にとって、田畑は金脈に等しい収入源であり、生業を立ててゆくよすがである。災害やイナゴなどによって田畑が荒廃することは、死活問題に直結する。そのため、田畑のコンディションには、常に入念なチェックが欠かせないのだが、台風や集中豪雨などで河川が氾濫した際には、農家の田畑の状態に対する懸念が顕著になる傾向がある。
一般的には用水路から田畑に水を引く場合には通常は水をせき止める板などを水門代わりにして水量を調整するが、大雨の際に通常の流量を想定した板の配置にしている場合、板が水路を必要以上にせき止めるために水路から水があふれ出しミニ洪水を引き起こすことになる。このため、雨量が多ければ多いほど、危険であれば危険であるほど用水路の調整を行う必要性が生じる。
大雨で水かさが増している場合には水路に流木などが引っかかっていることがあり、これがなおさら作業を困難にする。また流木が次の流木をひっかけることで連鎖的に氾濫の危険性が増していくことになり、連鎖的なリスクの拡大を防ぐためにあえてリスクを取って用水路の流木を除去しようとする人も少なからずいる。
河川が氾濫し、洪水の恐れがあるなか外出するのは、大変危険を伴う行為であり、まして自ら用水路に行く行為は自殺行為とも取れるものである。しかし、農家は、用水路の氾濫を防ぐためには自ら危険な領域に飛び込むことも惜しまない。危険を顧みず田んぼの様子を確かめに行った結果、不幸にも流量の増した水路に流され落命する人も少なくない。だがそれは、水利権と引き換えの流量管理の義務なのである。
田んぼ・用水路の様子を見てくるという言葉尻をとらえて、単に「見てくる」だけのように捉えている人が少なくないが、実際には「見て必要なら管理も行う」ために事故に遭うというのが実情である。
ところが、こういった農家の死をも恐れぬ勇敢さに対して、都会の人々の反応は極めて冷淡である。都会人達は、田んぼの様子を見に行く事を「向こう見ずな愚行」であると決めつけ、田んぼの様子を見に行って河川に流され返らぬ人となった農家の死を「犬死」であると嘲笑している。こういった冷淡な評価は、都会人の仕事に対する熱意の欠如、適当で杜撰な姿勢を反映している。
彼らの言う「向こう見ずな愚行」をして「犬死」した農家のおっちゃん達が、命がけで田んぼの様子を見に行き、田んぼを災害から保全してくれたからこそ、毎日の米や野菜が食べられるというありがたみを、彼らは忘れていると言わざるを得ない。
あまつさえ都会人の間では、田んぼの様子を見に行って農家が死ぬケースを「季節の風物死」「死亡フラグの典型」として笑い者にしている風潮さえある。第一次産業に対する愚弄、冒涜といっても過言ではない。
私は農家ではないが一言言いたい。
農家なめんなあああああああああ!
近年の民俗学の研究により、田んぼの様子を見に行った農家のおっちゃん達が命を落とすのは、河川に流されて「事故死」するのではなく、怒り狂う川の神様を鎮める為に自分の命を「人柱」に捧げている、という有力な見解が主張されるようになっている。確かに、田んぼの様子を見に行った老人が事故死したというニュースが報道されると、それから1日2日も立たない内に強風、豪雨は沈静化し、河川の氾濫も収まることが多い。もし、農家のおっちゃん達が、自分の身を犠牲にして天候を安定化させているのだとすれば、我々はなおさらのこと、彼らの死を風物死、死亡フラグなどといって愚弄してはいけない。
危険を顧みず田んぼの様子を確かめに行った結果、不幸にも流量の増した水路に流され落命する可能性が高い
■考えられる対策
・一人で行かない
・死んだら元も子もないので様子を見に行ってはいけない
以下、2chでの反応
■対策の検討
結論・・・様子を見に行ってはいけない